ローベルト・ムージルの好きな文章を紹介します。田中秀臣氏が引用したのと同じ本です。

不自然な利害の一致というものは惰性による他には、他者に対する暴力という共通の利害によってのみ、保つことが可能だ。そのことはなにも戦争という暴力に限らない。しかしながら戦争勃発の時期には大衆操作が働いていたと言うならば、それはひとつの秩序が内部の好ましからぬ緊張を放置していたため破裂したという意味でのみ理解されるべきである。人間がみずからを解放し、空を飛ぶようにして同類の者たちとひとつになったあの爆発的な昂揚は市民的な生活への拒否であり、古き秩序よりはむしろ無秩序を選ぶ意志、冒険への飛躍であった。そこにいかなる立派な名目があったとしてもだ。戦争とは平和からの逃走なのである(「理想としての国民と現実としての国民」)。

以下はムージル「精神と経験」 "Geist und Erfahrung"よりの引用。パラグラフは連続していない。

シュペングラーにおけるほど、見事で、力強い形成の萌芽にはめったにお目にかかれない。しかし、直感なるものの全内容がとどのつまりゆき着くところは、最も重要なことは語ることも取り扱うこともできず理性に関しては極端なまでに懐疑的である一方、(つまり、真であること以外にはなんの取り柄もないものに対して!)たまたま思いついたことならなんでも信じてしまうというありさま。数学は疑うが、文化とか様式といった芸術上の真理の義手や義足は信じている。直感を売り物にしているくせに、事実を比較したり組み合わせるときには、経験主義者がするのと変わりがない。いやもっと拙劣で、弾丸のかわりに煙をぶっ放しているようなものだ。 / 以上が、継続的な過度の直感の服用によって軟化したわれらの時代の精神、美的精神の臨床像である。

発展というもの自身直線的な経路をたどるものではない。理念は広まることによって、当然ながら弱体化を被るが、そのとき新しい理念の源泉からの影響が入り込んでくる。各時代の最も内奥にある生の核心、もやもやと湧き出てくる量魂が、はるかに古い時代の沈殿物であるもろもろの形式の中に納められていく。現在というものはいずれも、「いま=ここ」であると同時に数千年前のものなのだ。この生き物には、政治的、経済的、文化的、生物学的、その他無数の肢節があり、そのそれぞれが、異なるテンポ、異なるリズムを持っている。これを統一性のある像として眺め、唯一の根拠から展開することもできる。ちょうどシュペングラーがしているように一点を中心とする遠近法を用いて。しかし、その正反対のものを好ましいと考えても別に構わないのである。そこには計画もなければ理性もない。よろしい、そういったものがあるほうが、ないよりもましだというのは本当だろうか。不可知論は「快い」ものだろうか? それは正しいか間違っているかのどちらかのはずだ。不可知論そのものは合理性の問題なのだから、深遠であるか浅薄であるかのどちらかだ。しかしそれが人間にとって深いかそうでないか、それはもはや認識の一特性ではなく、合理的な確信の上に成立するものではあるが――私の用語を用いれば――非(ルビ:ノン)ラチオ的なコンプレックスのひとつである。 / この種の取り違えは、たとえば(哲学的な)唯物論の判断においてまさに永遠化された。この理論は今日もなお皮相にして心貧しいとされている。この理論だって天使への信仰同様に、きわめて感情豊かなものでありうるのに。これで、その種の理論を(その正否がはっきりしない限りでは)内的な生の形成のための知的な実験の基礎としてのみ取り扱ってもらいたいという私の願いの真意がわかってもらえただろう。今日起こっているのはその反対に理論に対しあまりにも単純かつ不器用にある種の感情的性格を押しつけることだ。ひとびとが悪しき主知主義と呼んでいるもの、われらの時代の流行の知的狂躁、成熟を待たずに枯死する思想等々が生まれるのは、われわれが思考においては深さを求め、感情においては真理を求めながら、それが倒錯であることには全く気づくこともなく、結局はどれもうまくいかずに毎度幻想を感じるハメになるといった現状のためなのだ。

私はみずからに誓った――書評をするのではない――この著名な一例において時代の諸欠陥を示そうと。皮相さ、骨組みだけの人形にオーバーをひっかけたごとき精神性。理性のマス目からはみ出す抒情性ある曖昧さ。こう言うのは、空中に漂う精神的なるものを「丸めて」消化するという瞬発力ある世界観者と、虫としての習性にしたがって毎日自分の体重の数倍をかじり尽くす本の虫、もろもろの学問を消費し、当然ながら未消化のままで吐き出すことしかできぬ本の虫とのあいだにある相違がどれほど大きいとしても、両者はそのみかけの対立にもかかわらず、意味の上では、悟性の使い方を知らぬ時代が生んだ同一の現象だからである。常日頃言われているような、悟性の勝った時代なのではなく、悟性があるべき場所にない時代というべきなのだ。

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